泣きたくなるほどに辛い日々だったけれど、そんな中でも唯一幸せだと思えた事は好きな人から名前を呼ばれた事だった──


「…ん」

不意に目が覚め薄っすらと目を開けると辺りは明るかった。

「……え」

慌てて飛び起きると私は布団に寝かされていた事に気が付いた。

(あれ?あれあれ?確か…お風呂で天眞と…)

恥ずかしい記憶がフラッシュバックの様に頭にいくつも浮かんだけれど、湯船で天眞にしがみついていた処で記憶はブッツリと切れていた。

(も、もしかして…昇天していた?私…!)

カァと顔が赤くなった。

天眞に抱かれるとたまにあった事だ。

あまりにも激しく求められると私は気を失う事が多々あったのだ。

「ハッ!て、天眞?!」

私は隣に天眞がいない事に気が付き慌てて隣の居間に行った。

だけど其処にも天眞の姿はなく、丸いちゃぶ台の上にはいつも通り朝食の支度がしてあった。

其のトレイの横にある白い紙に気が付いた。

手に取って読むと

【仕事に行って来ます。くれぐれも家のドアを不用意に開けない様にお願いします。】

とそっけなく書いてあった。

「開けないわよ!学習したってーの!」

フンッと鼻を鳴らして私は其のメモ用紙をバンッ!とちゃぶ台に置いた。

「…」

だけど直ぐに手に取り、箪笥の引き出しから取り出したノートに貼った。

(…随分溜まったなぁ)

私は天眞からのメモをこのノートに1枚1枚貼りつけて大切に取ってあった。

時々は其れを読み返して其の時の状況を思い浮かべひとりニヤニヤしたりガッカリしたりして自身の成長の糧にしていた。

(天眞…)

ノートは残り少なくなっていた。

其れだけ天眞からのメモがあって、其れだけの月日が経っているという事。

なのに

(なんで名前、呼んでくれないんだろう)

そんなに難しい事だろうか?

性格を偽って私を甚振っていた時には何でもない様に何度も呼んでいた名前なのに…

(……)

其処でハタッと厭な予感がした。

(…まさ、か)

じんわりと頭に蘇って来たのは、天眞が私に真相を話した時の事。

あの時の天眞の様子を反芻すると天眞が私の事を名前で呼びたがらない理由が解る様な気がした。

(まさか天眞…)

天眞は私の【お嬢様】という肩書に酔っているんじゃないのだろうか?!

落ちぶれた元・お嬢様ではあるけれど、あの真面目な天眞の事。

今も変わらず落ちぶれた私に対して【お嬢様】という肩書…というか付加価値を付けて、そんな私を可愛がる事で自分の性的思考を満たしている──って事じゃないのだろうか?!

(そう考えると…納得出来る…)

『お嬢様』呼びを続ける訳も…

名前を呼びたがらない訳も…

私がただの『凛子』になったら…

其れを天眞自身も認めてしまったら…


(もう私の事を愛せなくなるって考えているんじゃないでしょうね!)


──あまりにもドンピシャな答えに辿り着いた事にガックリと肩を落とした


(そうよ…そうだわ…あの天眞よ…)

あの無駄に変態的な程に私の事を大好きな天眞の事。

【お嬢様】の私をようやく自分のものに出来た悦びに打ちひしがれているのだろう。

(まぁ…元・お嬢なんだけどさ)

妙に納得してしまった私の心は少し寂しい気持ちが溢れていた。

(天眞…)

もし其れが真実だとしても私は天眞の事を嫌いにはなれないし、天眞から離れたいとも別れたいとも思えない。

天眞がお嬢としての私の事を好きだとしても…

(其れは其れで仕方がない事…なのかなぁ)

惚れた弱みとはいえこれは中々苦しい選択だった。

いつか結婚──という話になって、実際結婚して夫となった天眞は妻である私の事を『お嬢様』と呼び続けるのだろうか?

(いや…其処まではなんとか我慢出来たとしても仮に子どもが出来たら?)

子どもの前で妻である私を『お嬢様』と呼ぶ天眞を想像して青くなった。

(厭!そ、其れは絶対に厭ぁぁぁぁぁ──!)

誰もいない居間で悶々と考え込み、そして其の考えに一喜一憂して悶絶する私はきっとおかしな女なんだろうなと冷静に考えている私もいた。

(か、監視カメラとか設置していないでしょうね)

いつだったか天眞が口走った事をハタッと思い出し、無駄に部屋の中を掃除する体(テイ)で捜索してしまった私だった。


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