何処からともなく聴こえて来たヴァイオリンの音色に惹きつけられて、真っ暗闇の中を駆けて来た私の前に居たのは──

「…」

月明かりでぼんやりとしか見えなかった其の人の顏の、やけに光を放っているふたつのものから流れるものがあった。

(え…な、泣いている?!)

私は得体の知れない其の人を前に、怖さとか恐ろしさとか、そういった感情よりも先に

「…綺麗」

双眸から流れ落ちた光るものがなんて綺麗なんだろうと…

つい感情のまま口から出た言葉だった。

私の言葉を訊いた其の人はほんの数秒の沈黙の後、急にあたふたしだした。

そして

「き、綺麗なのはあなたです!」
「!」

そう発せられた声に私はハッとなった。

「な…なん…なんて綺麗なアリア…まさか…まさかこんな処で聴けるなんて…信じられないっ!」
「…あなた…もしかして」

歓喜の声色で次々に賛辞の言葉を投げ掛ける其の人の声を私は知っている。

(庭にいた不審者?!)

そう、今私の目の前で子鼠みたいな動きをしている彼は、数時間前に自宅で遭遇した挙動不審な自称・私のファンだという人物だった。

「あの…も、もう一度歌っ──」
「あなた、なんでこんな時間にこんな処にいるの?!」

相手が何か云ったのを遮って私は少し声を荒げて云った。

「…」
「こんな夜中に、こんな山で…あなた一体…」
「…あの…僕は…あ、あなたに逢いに…来ました」
「は?」
「先刻も云いましたが僕はあなたのファンで…八年前、初めて行ったオペラのリサイタルであなたの歌声を聴いてから僕はずっと…ずっとあなたのファンで…」
「八年前…?」
「はい、八年前の12月11日、豊重文化会館の大ホールでのリサイタルです!」
「…あ」

其れは私の中で一番強く残っている記憶だった。

(あの時は…伴奏者が…)

そう、其れは国際コンクールで優勝して凱旋記念リサイタルとして初めて行われた単独リサイタルだった。

私の希望でヴァイオリンの伴奏にまだ無名だった彼を指名して…

(初めて公で共演した最初で最後の)

時折胸がズキンと痛んだ。

もう私の中では忘れたと思っていた記憶と彼だったはずなのに──


「! 風音さんっ」
「…っ」

不意に視界が歪み、足元から力が抜けて行く感覚に襲われ私は其の場によろける様に尻餅をついた。

「大丈夫ですか!僕につかまってください」
「あっ」

其れはあっという間の出来事だった。

「家までお送りします」
「ちょ、ちょっとっ」

へたり込んだ私を其の人は素早い動きで背負い込んでいた。

(お、おんぶ?!私、知らない人におんぶされているの?!)

あまりにも驚き過ぎて少し脳内パニックになっていた。


「直ぐに着きますからね、しっかりつかまっていてください」
「…」

背中越しに聞こえる力強い声と、決して広くはないけれど温もりを感じる背中の心地よさに、何かを云うのが躊躇われた私だった。




暗闇だというのに恐ろしく速いスピードで自宅に到着した彼は、扉の前で私をゆっくりと下ろした。

「あ…あの…」
「そ、其れじゃあ僕はこれで」

私がお礼を云う間を与えずに彼は立ち去ろうとした。

そんな彼に私は思わず「待って!」と手を伸ばした。

「えっ」
「ま、待って。あなたは一体…」
「…」
「あっ…と、違う。まずお礼。あの、ありがとうございました」
「い、いえ…僕は何も…」

暗くてよく解らないけれど、きっと赤くなっているんだろうなと想像出来る反応だった。

「あの、よかったら…どうぞ」
「──え」
「中に…」
「えっ…!ダ、ダメですよっ!僕なんかを…よく知りもしない僕をそんな…」
「知らないから訊かせてください」
「え」
「あなたの事、訊かせてください」
「…」

何故突然私はこんな事を云ったのだろうと不思議な気持ちだった。

素性も得たいも知れない男を家に上げようだなんて防犯意識の欠如しまくりだ。

──でも

『…八年前、初めて行ったオペラのリサイタルであなたの歌声を聴いてから僕はずっと…ずっとあなたのファンで…』

『八年前の12月11日、豊重文化会館の大ホールでのリサイタルです!』


彼のあの言葉がやけに私の心に突き刺さった。


(あのリサイタルを知っているなんて…)

そんな感慨深い気持ちが普段なら絶対に起こさない行動を起こさせたのだと思ったのだった。

150alia
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