「ぎゃっ!」

何か柔らかいものを踏んづけた──と思った瞬間、私はとんでもなく色気のない声を上げてしまった。

数歩後ずさって目を凝らして踏んづけた物の正体を見ようとする。

すると

「~~痛ぁ」
「?!」

呻く様な低い声が聞こえ、また私は驚いた。

いきなりのっそりと黒い物体が盛り上がり、そして

「………あ」
「…」

暗闇だというのに何故か一瞬言葉を発した相手と目が合った、と思った。

ほんの数秒、見つめ合った時間があった。

だけど其の静寂はあっという間に相手の言葉によって掻き消された。

「わぁぁぁぁ、ほ、本物ぉぉぉぉー!!」
「?!!」

いきなり聞こえた耳を劈(ツンザ)く声に驚いた。

と同時に

(ほ、本物?本物って何がっ)

暗闇に目が慣れて来て、凝らして見れば声を発したものは何故か私を拝んでいた。

(な、何、何…なんで拝まれているの?!私)

戸惑う気持ちが大きかったけれど、此処は冷静にならなくてはいけないと思った。

「…あの」
「! しゃ、喋ったっ!」
「?!」

私に向かって拝んでいた相手は私の声を訊いた途端其の場でワタワタし始めた。

「…」

其の動向がとても気持ち悪いものに見えてしまって、私は思わず後ずさった。

そして一目散に庭から明るい玄関先までやって来て慌てて家の中に入った。


ガチャガチャ


震える手で鍵を施錠して、其のまま持っていた携帯を取り出し駐在所に電話しようと手を掛けた瞬間


『あの!あの、勝手に庭に入ってしまってすみません!』

「!」

玄関のガラス扉にぼんやりと映る細長い影と声にビクッと体は強張った。

『ぼ、僕は決して怪しい者では…あ、庭に居た時点で怪しいかも知れませんが、其の、泥棒とか変質者とかそういった犯罪者ではなくて』

「…」

『其の、僕は…僕は…あなたの……束原風音さんのファンなんです!』

「?!」

── ツカハラカザネサンノファンナンデス ──

(は…はぁ?!)

そんな言葉を訊いたのは久しぶりだった。


声楽界から引退して六年。

この田舎に燻って数年。

且つて掃いて捨てる程に訊いた賛辞の言葉を今更こんな場所で訊く事になるとは。

(何…何なの?!)

心臓があり得ない程にドキドキと高鳴っている。

すっかりただの人になりさがっていた落ちぶれた歌姫のなりそこないの私には強烈な一発だった。

『なのでどうか…怖がらないでください。あなたに怖がられたら僕…どうしたら…』

「…」

扉の向こう側で段々と小さくなって行く声に私の胸は徐々に落ち着いて来た。

『あの…』

「わ、解りましたから」

『えっ』

「もう、怖がったりしていませんし、其の、どうして庭にいたのかは知りませんけれど、其の、もういいですから」

『…』

「何かご用があって…訪ねて来たんですか?」

『…』

精一杯譲歩して私はこの全く見ず知らずの人に対してなるべく愛想よく話し掛けた。

素性が解らない以上、鍵を掛けた扉を開ける事は決してしないけれど。

(ファンっていうのも何処まで本当か解らないし)

女がひとり暮らしをすると防犯意欲は高まる。

もっとも辺鄙な田舎町の此処に於いて犯罪紛いな事なんて起こったりはしないと思うけれど。


「…?」

私が話し掛けた時からしばらく、扉の向こう側の人は言葉を発しなくなった。

(何、どうしたの?)

ガラス扉に映る影があるから其の場に居る事は解っているけれど。


沈黙の時間が数分続いた後


『あの…また出直してきます。夜分に失礼しました』

「え」

言葉を云い終えると同時にガラス扉に映っていた影はなくなった。

ザリザリと砂利を踏みしめる足音がやがて遠ざかって行った。


「…」

(一体…何だったんだろう)

突然庭に寝転んでいて、其れを私が踏んづけてしまって、そして──

『其の、僕は…僕は…あなたの……束原風音さんのファンなんです!』

「~~~」

私が舞台でスポットライトを浴びていた時を知る人だったのだろうか?

もう昔の事過ぎて私本人ですら其の栄光の日々を忘れかけていたというのに。

(あれは…誰だったの?)


予感がした。


私の中を静かに、でも激しく侵食しようとやって来る者の息遣いが。


落ちぶれた私の何かが変わるかも知れないという予感が微かにしたのだった。


150alia
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