小さな頃から夢見ていた。


真っ暗闇の中、私が立つ場所にだけ光が当たり、其の静寂の中高らかに響き渡る高らかなアリア。


真っ暗闇の中だというのに私を見つめる其のひとりひとりの表情は壇上からも窺い知れ


やがて歓喜の声が私の全てを包むのだ。



───私はそんな歌姫になりたいとずっと夢見ていた









「先生、さよーならー」
「はい、さようなら」

今日最後の生徒が帰り、室内はあっという間にシンッと静かになった。

(はぁ…疲れた)

強張った肩を回すとコキッと音が鳴った。


年が明ければいよいよ30代に突入しようという年の瀬。

「う~寒い」

夕刊を取りに家の外に出た瞬間、突風に吹かれた。

少し錆び付いたポストから夕刊を取り出すと、白い封筒が少し風に舞って地面に落ちた。

慌てて其の封筒を拾い差出人の名前を見た瞬間、時が止まった。


(……あぁ、そういう事)


止まった時間は一瞬だった。

直ぐに五感は動き出し、強烈な寒さを感じた私はそそくさと家の中に戻って行った。


無造作に夕刊と封筒をテーブルに置き、私は其のままソファにドカッと座り込んだ。

(…馬っ鹿みたい、私)

物凄く泣きたい気分なのに何故か涙は出てこない。

代わりに湧いて出て来るのはほんの少しの焦燥感と、やっと終わったのかという安堵感だった。

見なくても解る白い封筒。

裏面の差出人は両家の連名。

(いつか迎えに来てくれるかもと期待していた私って…間抜け過ぎる)


其れはよくある話。

前途洋々のヴァイオリニストの卵とこれから世界に躍り出て活躍されるだろうと注目されていた若き歌姫の恋。

音楽大学で知り合い、恋に落ちたふたりは共に目指す夢に向かいながらも愛を育んで来た。

先に世界に踊り出たのは歌姫だった。

しかし世界という大きな舞台で躍進するには歌姫の精神は弱過ぎた。

二年ともたずにストレスと過労で歌姫は其の美しい声を失った。

そしてあっという間に転落する人生。

後から世界に躍り出たヴァイオリニストの卵は、いつか実現しようと誓い合っていた世界を舞台にした歌姫との共演を諦めていなかった。

日本で静養する歌姫があの美しい歌声を取り戻す其の時まで待つと──そう云った。


しかし無常にも月日ばかりが過ぎ──


(…そっか、私が悪いの、か)

いつまで経っても戻らない声。

静養のためにと田舎の実家に戻り、亡き両親が残した平屋の家でピアノ教室を開きながら生計を立てている私はすっかり元の世界に戻る意欲を無くしていた。

そんな私に愛想をつかした彼を責める権利など私にはないのだ。

(私はもうとっくに諦めてしまっていたんだ)

住む世界が違って、ふたりの接点が交わる事はもう決してない。

彼の隣で微笑む私の姿はとっくに想像出来なくなっていた。

そんな私の気持ちに彼はやっと気がついたのだ。

だから私ではない歌姫との結婚を決めた。


(…ごめん、裏切ったのは私だった)

そう思った瞬間、やっと一筋だけ涙が零れたのだった。

150alia
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