──本当は漁師になりたかった


小学生の時、将来の夢という課題で書いた作文が賞を取った事があった。

其れが嬉しくて意気揚々に父に見せた。

だが

「馬鹿もん!何が漁師だ、おまえはこの早乙女の跡継ぎだぞ!おまえの将来は既に決まっているのだから馬鹿な夢を見るなどくだらない事をするんじゃない!」
「…」

頭ごなしに怒鳴られた事が幼心にもショックで、以来私は本当の自分というものを心の奥深くに封印する事を覚えてしまったのだった──






「なんだと?返済出来ないとはどういう事だ!」
「そ、其れがよく要領を得なくて…」
「いい、俺が直接行く」
「あっ、社長がわざわざ出向くほどの件では」
「黙っていろ!俺は自分の目で見た事しか信用しないんだ!」

大学を卒業した其の年に示し合わせたかの様に父が亡くなり、お決まりの様に私は貸金業の早乙女の会社を継いだ。

わずか23歳の若造が三代目として早乙女の看板を背負って行くにはあまりにも重く大きな看板で、何度も挫けそうになった。

いっその事早乙女などという名前など無くなってしまえばいいとも思った。

けれど到底そんな事は赦される事ではなく、金に群がる性根の腐った連中を相手にいつしか私自身も毒の部分が強く表に現れる様になっていた。

本当の私とは全く別の人格が表立って奮起する様になって、皮肉にも早乙女の家は繁栄する事になった。





「…はぁ…疲れた」

がむしゃらに働いて来て、気が付けば私は30歳手前になろうとしていた。

仕事に対して多少手の抜き処を覚え、任せられる処は信頼のおける部下に任せられるようになった。

そうして捻出した貴重な休みに唯一心が安らぐ趣味に没頭する事が私の愉しみになっていた。

「あっ」

クイクイッと掌に感じる振動に心が逸り、しかし慎重にリールを操る。

何も考えなくていい釣りが唯一の趣味だった。

人気のない山奥の穴場の川に休みの度にひとりで通っていた。

ボーッと釣り糸を垂れて何も考えない。

ふと気づくと鳥の鳴き声や風の吹き抜ける音、自然の息吹を感じる其の瞬間は私にとって至福の時だった。

小さい時は漁師になりたいと思っていた。

しかし其の夢は厳格だった父によってあっけなく握り潰された。

好きな事を仕事にしたいという選択は私には産まれた瞬間からなかったのだ。


「釣れますか?」
「え」

急に後ろから声を掛けられハッとした。

「あ、すみません。いきなり声を掛けてしまって」
「あ…いえ」
「あの…よく此処で釣り、していますよね?」
「え?」
「私、この先の小屋に住んでいて…此処、あんまり人が居ないでしょう?だからたまに人を見かけると気になって…」
「…」
「あなたは特に何度も見かけるのでつい、何となく覚えてしまって」
「…そう、ですか」

元々が人見知りの性格。

逢ったばかりの人間に対して言葉を交わすといった事は苦手だった。

しかしこの女性とは一目見た時から自然と目を合わせて言葉を交わし合う事が出来た。

不思議だな、と思った。


──だけど其れは私にとって必然的な出逢いだったのだと後々知る事になる


彼女は夏の間だけ山小屋に寝泊まりして、此処等に生えている草花で染料染めをしていた。

初めて言葉を交わした日から幾日も経ち、私が釣った魚を彼女の小屋で料理して食べる様な仲から親密な関係になるのにさほど時間はかからなかった。

既にいい歳になっていた私の元には見合い話を筆頭にあらゆる結婚相手の女性たちが群がった。

だけど其のどの女性に興味も食指も湧かなかった私が唯一自ら欲しいと願ったのが彼女だった。

彼女は私に何も望まなかった。

金も名誉も下手をしたら妻という立場さえも。

ただ自然の中に居て、草花を相手に自由に気ままに生活して行くだけで幸せなのだと云った。

だけど其れを私は自分の欲のために手折ってしまった。

かなり強引に彼女を妻として早乙女の家に招き、愛するが故屋敷から極力出さない様にしてしまったのだ。

彼女は私の事を愛してくれたけれど、早乙女という家には馴染む事無くいつも哀しげな瞳を私に向けていた。

私は本当の意味での愛し方というのを知らなかったのだ。

ただ贅沢なものを与え、好きだといった染料染めもありとあらゆる道具を揃え屋敷内で行える様にした。

そんな事で彼女を幸せにしているつもりになっていた。

だけどそんな小さな歪みは溜まりに溜まってやがて彼女を病気で亡くすまで気が付く事が出来なかったのだ。

ひとり娘の凛子を抱え途方に暮れた。

しかし凛子を彼女の二の前にしたくなくて、私は凛子が小さな時から最高の贅沢を与えて育てて来た。

この環境に嘆く事がない様に。

亡くなった彼女の分まで私の愛情を凛子に注ぎ込みたいと思ったのだった。





「──で、社長はこれからどうなさるつもりですか」
「私は…船に乗る」
「は?なんですって?」
「昔私は漁師になりたかったんだ。家のせいで叶わぬ夢だったが」
「…」
「早乙女の会社も家も無くなった今、私は今まで出来なかった事をさせてもらう」
「…社長」
「マグロ漁船にでも乗れば其れなりに稼げるだろう。其の賃金はいずれおまえに返そう」
「社長、マグロ漁はかなりきついですよ。相当な体力と精神力が必要かと」
「だから余計に乗り込む価値があるのだ──私は様々な贖罪を背負っているのでな…そういったものを体を痛めつける事で少しでも昇華したいという気持ちがある」
「…そうですか」

心の何処かで願って来たかも知れない早乙女の家の崩壊を実際目の当たりにした時、私は思った以上に冷静だった。

これからは亡くなった彼女の弔いと、今までの数々の愚行を顧みるいい機会なのだと思った。

「どうか凛子の事を…よろしく頼むぞ──天眞」
「…仰せのままに」


最愛の娘である凛子には無体な事をしてしまうと思ってしまっても、どうしてもこの現状が私にとっては最善だったと思わずにはいられない。

これからは私は私の本当の意味での人生を歩んで行きたいのだから──


数少ない所持品の中にある家族三人の写真を見つめながら、私は長年住み慣れた屋敷を去って行ったのだった。





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